検査〜入院〜通院生活で思ったこと②
前回からの続き。
病院て思ってたより嫌なところじゃなかった!という内容だったが…
そう思えたのも束の間だった。
■命さえつながっていれば
当たり前といえば当たり前ではあるが
今回ICUで術後、一時的に呼吸器をつけたが、喉に刺さって苦しくてむしろ窒息しそうだった。
病院側としては、乱暴な表現をしてしまうが、心臓が脈打ってれば、患者が吐き気で苦しくても、骨を折って痛くてしかたなくても、全裸でも、気が狂っていてもお構いなしなのだろう。
いちいち患者ひとりひとりに寄り添う余裕もないだけなのかもしれないし、そんな必要はないと思っているのかもしれない。
とにかく命さえつながっていれば良いという考え方が基本なのだろう。
■恐怖を煽って病気を煽る
医師は何かと恐怖を煽る表現をしてくる。
「このまま放置してるといずれはこうなるよ」
という表現。
一見普通だし、その時に備えて治療をしていれば、重篤な病に罹らずに済むのかもしれない。むしろありがたく親切な助言なのかもしれない。
でも、上にあげた医師の発言はまさに恐怖や不安を煽る言い回しととらえられないだろうか。
「この人達に付き合っていたら一生どこかしらに病気を作られそう」と思ってしまった。
■西洋医学は対症療法
今回の手術で腸管内膜症と確定診断を受け、婦人科の医師から子宮内膜症の冊子と共に「ディナゲスト」を飲むよう勧められた。
冊子を渡され説明を聞き、まぁ飲むのが妥当だろうなと思いつつもどうも気が進まない。
もちろん、内膜症に効果があるものなのだろう。それでたくさんの人が助かっていることもわかっている。
一旦保留にし、乳腺外科にも消化器内科にも相談したりしてみたが、口を揃えて飲んだ方が良いと言う。
しかし、やはり私の心は動かなかった。
なぜならば、手術時の全身麻酔による副作用が出たことと、いつも飲んでいた市販の痛み止め薬を飲んだら発疹がでるようになったことがあり、薬を飲むことに恐怖感を覚えるようになったからだ。
だって、ホルモンを弄るって…!?
・100%完治するわけでもない
・飲んだからといって症状が悪化して再び手術することになる可能性は50%
・生理が終わるまでずっと飲み続けなければならない
さらに
内膜症の方のブログに副作用の不正出血の酷さと老化現象(顔が急に老け込む・白髪が増える・心がおばあさんみたいに穏やかになるなど)があるとちらほら書かれているのを見かけた。
生理の何が嫌だって、ずっと生理用ナプキンを使うことだし、老化は既に日々感じていて今一番気にしていることではないか…!
もう悪い印象しか抱かない。
で、そもそも
なんで完治しない薬を医師が堂々と勧めるの?
今回のケースに限らず、そもそも薬ってという話になってしまうと思うが
飲んだら進行が止められるのかもしれない。でも自分の中で完治すると確信を持てない薬を何年も飲み続けなければいけないというのには納得がいかない。
幸い今すぐ命に関わることほどではなく時間がある。生理痛もたいていの内膜症の人のように重くない。
それならば、薬を飲む以外で自分にできることを試してみたい。だから…
「飲みません」と医師に告げた。
「えぇ〜っ…!?」かなり呆れられた。
「経過観察しましょう」と言われたけど、医師の目は死んでいた。ほぼ諦められた雰囲気。
飲まないと言ったからには後戻りはすまい。
他の方法を試すしかない。
というわけで、ホリスティックなアプローチで病気と向き合うことにした。
致し方ない事態になれば飲まねばとは思っている。
早く飲んでおけば…なんて思う日がくるのかもしれない。
でも、体を診てもらうからには多少心に寄り添ってもらいたいのが私の本音。でもそれは今回叶わなかった。
飲む気にさせてくれる医師とご縁がなかったのも私の運命ととらえ、私なりに病気と向き合うことにする。
■どんな治療を受けるかは本人の自由
よく癌で闘病中だった芸能人が西洋医学ではない摩訶不思議な治療法を選択したから命を落とした、という報道のされ方をする。
「もっと違う方法はあったのに」
「あんな治療しなかったら」
「あれを勧めたのは誰だ?」
犯人探しが始まる。
あれは本人がそういう選択をしたまでで、他人がとやかく言う問題ではないと思う。
ましてや、有名な芸能人などは経済的にも良い治療を受けられる可能性が高いはずなのだから。
どういう治療をしてどう生きるか、どう死ぬか、その選択に文句をつけるのはお門違いではないだろうか。
■病気は自分の思い込みで作るものと考えると…
できた時に箇所だけにアプローチする対症療法よりも、東洋医学やホリスティック医療を駆使した方が再発もなく根治できる可能性が高い。
でも即効性はない。重篤な病気になってしまうレベルならおそらく強い思い込みを持っているため多くの時間が必要になり、あっという間に病気が体を覆って取り返しのつかない状態になるだろう。
それに薬のように「これさえやっていればいい」という具体的で決定的な治療法はない。
よく「奇跡的に病気が消えました!」という魔法のような記事も見かけるし、実際そういう瞬間もあるのだろうけど
ほとんどの場合は毎日、毎日、こつこつ衣食住を改善した上で生き方考え方が変わって、少しずつ病気が改善されていくものではないかと私は思っている。
緊急性がある場合は西洋医学、時間が許すのなら東洋医学やホリスティック医療でじっくり根本から治すのがベターだと私は考える。
鼻や喉に管を通されて自由に体を動かせなくて『生きてるだけ』って、本当につらい。
心でいくら叫んでも言葉を話せる状態でなければつらくても伝えることができない。絶望感でいっぱいになる。
私は術後すぐにあまりの辛さにもういっそこのまま…とさえ思ったくらい。
命あっての、というのもごもっとも。
でも、命を1日でも延ばすことと同じくらいその人の意思も尊重されるべきだ。
病気とどう向き合って、どう治療して、どう生きるか、またどう死ぬか、自由に選べる世の中になってほしい。
そのためにも元気なうちに延命措置についての可否の意思表明をしておくこと、健康寿命の大切さを実感した。
これで病院関連の話しはひとまず終了する。
最後に…
あれこれ勝手なこと書いてしまったが
医療従事者がどれだけ過酷な環境で働いているのか、今回の一件でとてもよくわかった。
コロ助と闘っている病院の大変さは想像を絶する。本当に頭が上がらない。
かつて医者や看護師に「気持ち」を渡す習慣があったが、なんか、賄賂とかそういうのではなく、
本当によくしてくれて「ありがとう」の一言で済ませたくないというか、本当に感謝しているのだという気持ちを伝えたくて、渡したいな…となんだか思ったのだ。
ただただ、感謝申し上げる。
命をつないでくれて、適切な処置をしてくださりありがとうございました。
おかげで、自分の体のこと、人生の進め方、修正することができました。
次回は最後に、この入院で役立ったアイテムを紹介する。
検査〜入院〜通院生活で思ったこと①
ここ数日、ずっと入院ネタばかり続いているが
今回も同様のネタである。
病院に対する個人的イメージがずいぶん変わったのでそれについて書き残そうと思う。
特に専門的な知識があるわけでもなしに、素人がただ吠えるだけであることは事前にご承知願いたい。
今回はポジティブな印象を。
■検査は地味にきつい!
幸いにもCTかMRIを撮る程度しか経験したことがなかった私は検査=健康診断プラスαくらいにしかとらえておらず、むしろ「会社に行かなくて済む正当な理由ができてラッキー」とさえ思っていた。
しかし今回、2ヶ月間毎週のように検査、検査、検査…
病気の場所が場所だけに、毎週のように下剤を飲み、お尻の穴から空気やら管やら入れられ、組織を取られ、注腸検査に至ってはお尻からバリウムを入れられ、その状態でベッドに寝そべりされるがままで…
MRIでは室内で響き渡るドラムのような謎の爆音、造影剤を打ったときのなんとも言えぬ全身がカァッと熱っぽくなる感覚、加えて乳腺外科でのマンモグラフィ、針生検…
全ての検査が終わり入院の相談が持ちかけられる頃には心身共にぐったり。
検査がこんなにきついとは思っていなかった。ゴメンナサイ。
■看護師(事務)さんてやさしいんだ!
今まで誰かの付き添いで行った病院のスタッフがかなり冷たかったこともあるが、今回世話になった病院では思いの外、誰もがとても親切にやさしくて、赤ん坊に戻ったかのように丁寧に対応してくれた。
まるでもう一度産まれ直したかのような体験。
もうちょっと長く居たいかもと一瞬思ってしまった。医師、看護師、理学療法士、薬剤師、事務員、良心的な雰囲気の病院で良かった。
感謝!
■食事が思ってたより美味しかった
よく病院食は不味いと聞く。入院前にも看護師などから美味しくないと事前に聞いていたので覚悟はしていた。前に記事で紹介した通り、ビジュアルは昭和の給食みたいだったけど決して不味いわけではない。
いや、むしろめっちゃ美味しい!!
体が不自由な状態の時って、どうしても娯楽が食事のみになってしまう。その唯一のお楽しみを心豊かに過ごすことができた。
自分であれだけの数のメニューを栄養も考えた上で作るなんて大変だし。ただ、今回消化器系の手術を受けたのでもっぱら柔らかい食事ばかりであったため原形をとどめていないものばかりだった。ちょっと残念(笑)
■病院とつながれたという、ちょっとした安心感
私は無職だし、職に就いたとしても派遣社員なので会社のお抱えの病院などない。かかりつけ医もない。いざという時、大きな病院に一度でもご縁ができていると、なんだか安心なのは私だけだろうか。
検査すれば他の科と情報共有してくれるから、あちこち病院へ通う必要もない。高額医療制度も適用されやすいのでありがたい。
病院て、案外良い感じのところかも!
と思っていたが…
②へつづく
入院して手術したときのこと⑤
前回からのつづき。
目次
新メンバー
さて、私がいた病室は軽度の人達が入る部屋らしく、次々に退院しては他の病室から移動してきて、比較的に頻繁にメンバーが入れ替わっていく。
突然私の隣に入ってきたのは、ちょっと記憶が曖昧な80歳のおばあさん。
看護師や医師や療法士さんが訪ねてくるたびに長〜いトークが始まる。
「名前は、それなんて読むの(おそらく名札見ながら)?」
「生まれは?」
九州生まれと聞くと決まって「じゃああなた武士の家系だわ!私の叔父が小早川の方で…」と自分の血筋についての話が5分くらい続く。
ここでトーク終了に失敗すると
「バイト先で引くて数多で色々な場所へ駆り出される話」
「コロナのせいでコンビニでトイレを借りれなくなって困る話」
「携帯電話の充電器を忘れて電池切れしそうだから娘と連絡取って欲しい話」
3話をランダムに、何度も、延々とされる。
1周付き合うと15分くらいになるだろうか。
あぁ、志村けんがやってたおばあちゃんコント、リアルなやつだったんだ…
それを、時にやさしく時に冷たく、おばあさんに不快な思いをさせないように絶妙に受け流す皆さん。あのトーク力、スルースキル、本当に素晴らしい。
一応言っておくが、お部屋の人の話にわざわざ聞き耳を立てていた訳ではない。
大部屋の薄いカーテンでしか区切られていないゆえ、聞きたくなくても聞こえてきてしまうのだ。
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そんなある日の、深夜2時。
やっと眠れるかな…と、まどろみ始めた時
かつて仕事帰りに憩いを求め、通い詰めていた「ドトール」で流れていた曲が何だったのかを思い出したくて、YouTubeで捜索活動を始めてしまった。
誰かが「ドトール夜」というプレイリストを作ってくれていたので聴いてみるが、肝心の思い出したい曲だけない。
Google先生にもお願いしたのに、それらしき曲だけ見つからない。
あの、19時頃かかっていたメロ〜でム〜ディ〜な…80年代っぽいアメリカの?…
「思い出せない。く、苦しい…。」
数日前の「なつぞら」と同じ現象をまた起こしてしまった。本当、これ何??
(曲は、Cicagoの『Hard To Say I'm Sorry』で落ち着いた)
あぁ、気がつけばもうすぐ6時。起床の時間。間もなく看護師さんが体温と血圧と脈拍を計りにくる。
ICUから、いや入院した日からろくすっぽ寝てないのに、せっかくの睡眠チャンスを自ら逃してしまった。
6日目〜9日目(一般病棟4〜8日目)
痛みも少しずつ和らいで歩けるようになってきた。
グロッキーな数日間は何もかも不自由でもどかしく、気が立っていたけど、ようやく平常心が戻ってくる。
今まで運動できなかった分、動こうとフロアを徘徊。看護師さんに「ここまで歩いてる人見たことないです…」とドン引きされるほどアグレッシブに歩きまくったため、腕の点滴の針がズレて何度も打ち直してもらう。
しかも私の静脈は見つけにくいらしくてみんな苦戦する。
「何度もすみません」と謝ると「動いた方が早く治るのだから、良いことですよ。何回でも直すからズレたら言ってくださいね」と言ってくれた。…やさしい。
背中の麻酔、腕の点滴、お腹のドレーンが抜け、晴れて自由の身に。
痛みはたまに激しめのやつがくるけど、腹筋を使ったときやお腹がぐるぐる働いている時だけなので最初に比べれば楽なものだ。
そして…1週間ぶりにシャワーを浴びることができた。
ICUでかいた大量の寝汗と日々の運動の汗で頭皮が大っっ変なことになっていたので本当に嬉しかった。
3回シャンプーをしてやっと頭さっぱり。
そんなことしてたら長風呂になってしまい、途中で看護師さんが安否確認に来た。
食事の記録
食事は流動食→重湯→お粥と、徐々に硬くなっていく。
病院食ってまずいと聞いていたけど、この病気のお食事はどれも美味しかった。
重湯あたりから記念に写真撮ってみた。↓
デザート「ババロアN」はいつかの給食に出たような、体に良いのか悪いのか?と思う味。エモい。
和食に「牛乳」。
食べ合わせ無視な感じがこれまた昭和の給食っぽくてエモい。
これは白身魚か鶏肉か?
密かに謎肉と呼ばせてもらっていた。(味はめっちゃ美味しい)
段々形が普通になる
この卵焼き、めっちゃ美味しかった〜
退院当日の最後の食事は食パン!
普通の四角い食パン!!
そのお供には今や悪名高きマーガリン。
まさか病院でお見かけするとは…
食事が重くなるたびに医師と栄養士さんが食べ終わる頃にチェックしにきて
完食したお皿を見ては「おお〜!!」と嬉しそうに帰っていく。
執刀医の先生、外来のときは怖そうだったし看護師さんからも厳しめと聞いたけど
実際のところは来てくれるたびに「大丈夫だよ」とゲロゲロ状態の私の膝をぽんぽんしてくれていっぱい勇気づけてくれて、とてもやさしくしてくれた。感謝でいっぱいだ。
何せ、ある意味私よりも私の「内側」を知っていると思うと、妙な気持ちになり、お医者様ルック+マスクなど色々補正も加わり、つい目がハートになってしまう。笑
8日目に「最終試験」のレントゲンと採血の結果もよく、普通のお粥が食べられるようになったので晴れて退院させてもらうことになった。
そして、退院
しばらくの間食事制限せねばならないため栄養士さんから食材についてレクチャーを受ける。
退院の手続きをして晴れて病院を後にする。
久々の娑婆の空気。笑
たった1週間ちょい入院してただけなのに、なんだか湿度が高くなってる。
Tシャツで丁度よい。季節は進んでいた。
思わず最寄りのスタバで1杯。カフェインNGなのでディカフェで。
無事帰宅。
こうして、8泊9日の入院生活が終わった。
どうやら大腸にできた腫瘍は癌ではなく内膜症らしい。
今後、術後しばらくは外科、そして婦人科、乳腺炎の経過観察のため乳腺外科に世話になる。
結局、「婦人病」らしい。
女性であることを否定してきたし、母親への不信感もあるので妥当っちゃ妥当か。
先生も看護師もみんなやさしくて、食事も美味しいし、3食作ってくれて上げ膳据え膳、ぐうたら過ごすのが仕事、ちょっと運動したり食べられただけでめっちゃ褒めてくれた入院生活。
色々不便もあったけど
またあの機能不全家族のところに戻ると思うと憂鬱で、また具合悪くなりそうで、ちょっぴり名残惜しい。
でも病気を罹って出戻りすることなく、健康でいることが病院のみなさんの願いだろう。
お腹の傷も最初はショックだったけど、私の命を救おうとしてくれたみんなの愛ととらえると、嬉しい気持ちにすらなる。
体のことも、私の大切な一部と受け入れた「新しい日常」へ戻っていこう。
当時の出来事と気持ちの備忘録。
確かに病院へ感謝の気持ちがあった。
でも今は…
通院編へつづく
入院して手術したときのこと④
前回のつづき。
今回も消化器系の話をするので下ネタ注意。
3日目(一般病棟1日目)
一般病棟はエアコンを使っていなかったせいか部屋が潤っていて喉の渇きは解消された。
相変わらず吐き気は止まらなかったけど、喉を潤すために起き上がるという動作が減ったせいかゲロゲロするまでには至らなくなった。
でもツライことには変わらない。試しに一旦麻酔を止め、痛み止めの点滴だけにしてもらう。
吐き気は収まるには収まったが、代わりに腹部全体が激しく痛む。
耐えられそうもないので、仕方なく再び麻酔を流してもらうしかなかった。
吐き気か、痛みか、究極の選択
そんなシビアな状態のところに…
同室にいた50代後半と名乗る人と2人と40代半ばと名乗るお姉さま1人が意気投合されたようで、夕食後から消灯まで数時間3人揃ってペラペラペラペラ「本っっ当にどーでもいい話」をしだした。
(初日と同じ部屋のはずだけど、私がICUでゲロゲロしてる間に1人増えたらしい。)
途中、私に「うるさくてごめんなさいね〜ぇ」と謝ってきたので最初は「いいえ良いですよ。大丈夫ですぅ〜」なんて心広いフリしてやさしくしてみたら
「良いって言ったから大丈夫よ!」って調子に乗ってだんだん音量デカめになってきて。
耳栓すら通用しない音量。
ものには限度というものがある。
私ゃあんた達の話なんか聞きたくないんだよ、体を休めることに集中させてくれぃ!!
堪忍袋の緒が切れた私は
「静かにしてください!!」
と思わず大声で主張してしまった。
「はい!ごめんなさいね!」
それ以来、彼女らは部屋の外で話すようになり、私は「怖い人認定」され、警戒されることとなる。
ちなみにその、私がキレてしまった時の話題は彼女らの「パンツ事情」について。
ハッキリ言って、見た目的にはスーパーで「3枚1000円」で売られている、駱駝色のデカパンを穿いてそうなのだが(※あくまでも個人の感想)、実はひらひらフリルのついた「Tバック」や「紫色のテカテカのひもパン」を穿いているというのだ。
「いつまでも女でいなきゃだめよ!」
50代のお姉さまが一番若手の40代のお姉さまに説き伏せていると、「私もTバック穿くわよぉ〜♡」ともう1人の50代のお姉さまが乗っかり始めた。しまいには「今度LINEで写真送ってあげるわぁ〜♡」だって。
グロッキーだった当時の私にとって、見知らぬお姉さま方のおパンツトークは結構キツかった。けど、ちょっと興味深い。
ちなみに、そこまで自慢して語り倒している割りには今回の入院時、看護師さんの目を気にして穿いてこなかったらしいw
(こういう時こそキレイなおパンツ穿かんのかい!とツッコミを入れたくなるのは私だけか。)
4〜5日目(一般病棟2〜3日目)
ようやく飲料解禁!
入院前ドラッグストアで買った約60円の水を思う存分飲む。
売店までは遠く、とてもじゃないけど行けない。買っといて良かった。自由に水を飲めるよろこび!
お、おいしぃぃぃ…ありがてぇぇぇ…(泣)
(ちなみに今回入院した病院はカフェがあるわけでもなくお湯がでるわけでもなく、なんならコンビニとかATMとか、楽しげなものがなーんにも備わっていない病院)
相変わらず吐き気と腹部の痛みに襲われる。起き上がる動作、くしゃみ、おならすら命懸け。
それでも、痛みが少しずつ和らぎ始めてきた
ので麻酔を止める時間を長くし、痛み止めの点滴だけでしのげるようになった。
さらに尿を排出する管を外してもらえて、ふらふらするけど歩ける状態に。
トイレへは無論、自分で行くことになるのだが、尿の量を計って記録せねばならないらしい。
おまたに計量カップをあてて、いわゆる尿検査スタイルで毎回用を出すのだ…
最初は様子見のため看護師さんがトイレの中まで車いすで移動してくれて
さらに一緒に中まで入って待っててくれるわ、計量カップに入ったオシッコの量を計って記録してくれるわ、至れり尽くせり過ぎて落ち着かなかったけど(笑)
自分1人でなんとか歩けそうだったのでそう伝えると、あとは1人で全部やらせてくれるようになった。
1日も早く傷口をふさぐこと・腸閉塞防止のため、とにかく体を動かして欲しいらしく、相変わらず毎日理学療法士さんが訪ねてきてくれていた。
最初の数日間は起き上がるだけで吐き気とめまいに襲われて、5分くらい足を軽くストレッチしてもらうだけで撤収してもらうしかなかったけど
麻酔をやめてからはなんとか車椅子で廊下まで移動してつたい歩きができるレベルにまで回復。
⑤へつづく
入院して手術したときのこと③
前回からの続き。
今回は特に消化器系の話、手術の話でメインの下ネタオンパレードなのでご注意を。
目次
入院1日目
お昼頃から入院の手続きと噂のPCR検査。綿棒を鼻の奥までぐりぐりされた後、部屋に案内される。
コロ助の影響で面会は基本NG。実家住まいの私にとって家族(ていうか毒母)から離れられるって嬉しい。
定員6人のうちすでに2人居るようだ。でも静か。これなら割と快適に過ごせるだろう。
遠くの部屋からおじいちゃんが大声で「オイ!!!」って5秒おきに連発してるのが聞こえるけど…
次の日の手術に備え絶食。
下剤を飲みお腹を空っぽにしつつ点滴。
荷物を降ろして落ち着こうかというところに外科の先生達が様子を見に来たり、ICU担当の看護師が手術当日の流れを説明をしに来たりであっという間に夜。消灯時間は22時。
慣れない病室と手に刺さった点滴と緊張でほぼ眠れず朝を迎える。
2日目
手術当日。朝イチで執刀医が挨拶にきた。
「どう?眠れた?」
あまり眠れなかったと伝えると
「あはは。それなら後で麻酔するからそれでゆっくり寝てればいいよ」
先生、余裕だな。任せましたよ。
手術用の服に着替え、9時本番。
看護師から事前に聞いていた通り、オペ用のベッドに寝転がり、背中に痛み止めの麻酔を刺した上で全身麻酔のため酸素マスクがはめられた。
そのまま深呼吸せよと言われたので2、3回しているうちにシンナーのような?何か「ヤバイやつ吸ってしまった!」という何某かを吸った。
先生から「じゃあ麻酔効いてくるのでゆっくり寝ててください〜」と言われたのが最後。
この後、私の体にされたあれやこれやは全く記憶にない…
✳︎ ✳︎ ✳︎
意識が戻り部屋の時計を見ると12時半。
麻酔を吸って意識をなくしてから3時間以上経っていた。
私がこうしているということは、どうやら手術は無事に終わり、ICUに移されたらしい。
膣の奥らへんがズキズキ痛む。
女性の外科の先生が良きタイミングで「どこか痛む?」と声をかけてくれたのでそれを伝えたら、手術前に背中に刺した麻酔を流してくれた。
背中の麻酔と点滴と、全身麻酔で虫の息になるため鼻に酸素吸入用の管、しばらく歩けないため尿を排出するための管がおまたに入り、患部のS状結腸のちょい上らへんに穴を開けられドレーンを入れられていた。
「う、動けない…」
とにかく苦しかったのは鼻の管。
喉の奥まで達していて息をしていると痰がからんだときのような息苦しさが。
間もなくその管は抜かれたけど、これ、歳とった人が入れられたら逆に窒素しないだろうか?
2〜3日目の朝(ICU1〜2日目)
麻酔による吐き気と喉の渇き、たまにくる傷口のズキズキ、謎の体のムズムズとの闘いが始まる。
体は謎の暑さで汗びっしょり。
知らぬ間に紙オムツを穿いていた。あれ?一体いつ?誰が?…蒸れておまたがカユイ。
エアコンの温度を下げてもらったはいいが、空気が乾燥して喉の渇きが止まらない。
水を飲みたいと看護師さんに言うと「ごっくん」することがNGとのこと。
え?そうなの?!
聞いてない!!!
飲めるものだと思っていたため余計イライラする。
仕方なく指示通りうがいで口の中を潤し、バレない程度のわずかな量を「ごっくん」してしのぐ。
ただ、喉を潤すには弊害があった。
うがいするため体を起こすと(正確には視線を動かすだけで)麻酔の副作用で激しい吐き気に襲われるのだ。
お腹の中は空っぽなのにゲロゲロせずにはいられない。
知らぬ間に青汁飲まされたのかな?と勘違いしてしまうほどに緑色の液体(胃液)が口から出る。
吐くにも傷口が痛んでロクに腹筋が使えない。
吐き疲れて寝て、喉が渇いて起きて上がり、また吐き気に襲われ、たまにくる謎の全身のカユミにムズムズする…
このサイクルで翌朝まで過ごした。
「なんで私はここでこんなことしてるだろう…」
そんなことを思っていたら、突然数年前の朝ドラ「なつぞら」が思い出された。
「そういえば広瀬すずのお兄さん役、誰だっけ??」急に思い出したくなる。
キャストは松嶋菜々子に藤木直人、草刈正雄、哀川翔のムスメ、山口智子…
他の人はどんどん思い出していくのに、肝心の「お兄ちゃん役」だけ顔も名前も出てこない。
「思い出せない。く、苦しい…。」新たなる苦しみを自ら作ってしまった。
このどーでもよい苦しみ、もしやこのゲロゲロの刑に体が耐えられなくて「お迎え現象」を起こしているのか?
このまま私、天国へ行くのか?
…そんなこともなく
しばらくしてまた喉が渇いて例のサイクルが始まったのでそれどころではなくなった。
以後「なつぞら」を思い出すことはなかった。
(後で調べたところ正解は「岡田将生」)
3日目の朝(ICU2日目)
引き続き喉の渇き〜ゲロゲロ〜寝るのサイクルを繰り返して朝を迎える。
日勤の若い女性の看護師さんと研修中の看護師さんが入ってきた。
感染症予防という理由で、尿を出すための管が入れていたところに消毒のため、おまためがけて熱湯をかけてきた。ヤケドしそうな程熱い。
お嬢ちゃん、せめて
「熱いのいきます!」と一言言っておくれ…
それが終わると、紙おむつを穿かされズボンを穿かせてもらったところで、理学療法士さんが登場。
今から「リハビリを始めよう!」と言ってきている。
切った箇所を早くくっつかせるには体を動かすのが一番らしく、入院前に「手術した次の日から動いてもらう」とは事前に説明を受けていたけど…
当時の私は体を起こすだけでもゲロゲロ状態。どう考えても無理だろ。
状況を察した療法士さんは悲しそうな目で私を見て、足だけ軽くストレッチしていき帰っていった。
すかさずベテラン看護師さんが入ってきて、「起き上がったついで!」と、すんごい勢いで体を拭かれ、着替えの介助を始めた。
体がついていけず、再びゲロゲロ…
ICU2日目のここまでの流れ、「ドリフ大爆笑」の「もしも威勢の良い風呂屋があったら…」というコントのいかりや長介状態。
「されるがまま」ってこういうこと。
間もなく「次の人がくる」とのことで、ゲロゲロ状態のままICUから初日にいた一般病棟へ移された。
④へつづく。
入院して手術したときのこと②
前回のつづき。
消化器系やら内臓の話しをするので、引き続き下ネタです。お読みになる方はご注意ください。
今回はハマったが最後。
検査地獄〜入院までの備忘録。
目次
2021年4月頭
便を出すとき、腸のある地点で引っかかっる感じがして出しきれない感じがしたり痛んだりが続いていたこともあり、念のため大腸内視鏡検査とCTを撮った。
すると大腸の外側に何某かが居ることが判明。
医者曰く、その"居候"は
①癌
②子宮内膜症
のどちらかとのこと…
①だった場合、管の外側に腫瘍ができているため転移が通常の大腸癌より早く、今すぐにでも切除せねば命に関わるとのこと。
②だった場合、閉経すれば症状が収まるものなので邪魔じゃなければ放置しても大丈夫とのこと。(実は子宮内膜症、子宮内に限らず大腸や肺などあらゆる場所に出現するトリッキーなヤツらしいのだ。)
どちらか判別するには、今回の大腸内視鏡検査では内側(大腸の管の中)からのアプローチなので、癌と判別ができる確率は10%くらい…けどもう一度やったら取れるかもしらないからお願い!!
と医者から言われ…確率悪いのになんだかなぁと思いつつも、これで終わりになってくれと願いを込めて、再度検査をしてもらった。
がしかし所詮、判別率10%
何も出てこず…
さらに造影剤を使って再度CTをしたところ、なんたることか病気がもう1つ見つかってしまった。
左胸に怪しげな異物がくっきりと。
乳癌の疑いがあるとのこと。
大腸のアイツが癌だったとしたら、転移してできた可能性もある、と。不安と恐怖100倍増し。
大腸癌&乳癌のダブルパンチ!?
急いで乳腺外科の予約を入れ、エコーとマンモグラフィ、針生検をしてもらった。
久々のマンモ、激痛。
その直後まさかの針生検でグリグリ胸の組織を抉られた。
スピーディーに検査へ回せたものの、世の中はゴールデンウィークでお休みモード。もれなく病院も休みに入り…
検査結果は通常より長めにかかり3週間後。
全くもって気が休まらない!!
どちらかというと、大腸癌より、実はこちらの方が精神的に堪える。
大腸は切っても隠れる。でも胸はそうもいかないのだろう。
ショックは大きいだろうな。片方だけ切ったら体のバランスは?切っても抗がん剤とか飲むの??ブラジャーは片方だけのやつとかあるの??温泉は??周りの人達からどんな目で見られるの??
…と、色々な恐怖を沸き上がらせながら、乳癌経験者のブログを読みなんとなく覚悟をしつつ、生きた心地のしない3週間を過ごした。
結果は…
癌組織は検出されず乳腺炎とのこと。
定期検診をして経過観察することになった。
今後も油断はできないが…
ほっと一息。
そして注腸検査
乳癌の疑惑がひとまず晴れたところで、大腸の腫瘍に集中できることとなった。
肺と肝臓に転移がないか調べるためにMRIと、腫瘍の姿をちゃんと見るために注腸検査をした。
すると、大腸、いや正確に言うとS状結腸の外側にくっきり腫瘍が映っていた。
コイツが居るために便が詰まり、仕舞いには下痢になるというあの症状が出るらしい。
ただし切って細胞を検査しない限り、癌か否かは判別できないとのこと。
うろ覚えだけどどんな感じかというと↓
5月下旬
家族同伴で医師から現状の説明を受け、手術するか否か決断を迫られた。
手術する場合は腹腔鏡手術。お腹に数カ所穴を開けて内視鏡を挿入し、テレビモニターを見ながら切除する。2週間ほど入院する必要があるとのこと。
セカンドオピニオンに相談も可。切除せず経過観察するも可だったが
検査検査の日々のストレスのせいか、症状が重くなってきていたので切ってもらう方向で話を進めた。
消化器内科から外科へバトンタッチ。
手術の詳細と実際するか否かの最終確認が行われ、全身麻酔に耐えられるか、心臓と肺の検査をした。不正脈の気があるも合格。
入院日を決めて2021年5月下旬、間もなくその日を迎えた。
③へつづく。
入院して手術したときのこと①
前回記事で、自分の体に癌細胞ができてしまったのではないかという疑惑が出てきたと書いたが、その後、検査だけでは疑惑を払拭できず入院・手術をした。
自分史上、ここまで大きな怪我も大病もなく病院というものには縁遠く、ちょっと具合悪くなったときか、せいぜい家族が緊急入院する際に付き添ったくらい。
「病院=病気や怪我の治療をしてくれるところ」という認識以上何もなかったのだが
今回色々感じたので書き残す。
今回はお腹関係のことをかくので下ネタになることが予想される。
もしこの記事に偶然ぶち当たってしまった方、大腸など内臓に体の異変がない人であれば、ここで読むのはやめておくことをオススメする。
目次
最初はひょんなことから…
ある日の深夜。
「いつものアレが始まったか…」
実は数年前から数ヶ月に1回、深夜に激しい下痢に襲われることがあった。
お腹からギュルギュルギュル!!と大きめの音が聴こえてから1時間くらい経ったころ、だんだん大きくなる腹と共に「波」がやってくる。さあ、長い戦いの始まりだ。
水分補給用の水を片手にトイレで籠城。
第一弾が終わった後も引き続き激しい腹痛を抱えつつも何も出てこない…というサイクルを脂汗をかきながら嘔吐も加わりただひたすらお腹の中ものが一掃されるまで忍耐を続ける。
全身の異様な冷えがやってくると終わり近い。湯たんぽで暖をとるためよろよろの体を引きずって台所とトイレを往復。
空が白んでくる頃、やっと落ち着いてぐったりした状態でやっと就寝…
一晩のたうち回れば収まるので、悪いものでも食べたのかな?スピリチュアル系でいう浄化かな?なんて気楽に考えていた。
しかしそのサイクルに1度イレギュラーなことが起きることがあった。
昨年、1度下血したのだ。
まさかの下血!でも病院へは行かなかった。
2020年5月。ちょうどコロ助に全世界が怯え始めた頃。私は4月から職場を変え、隔週の在宅勤務を始めていた。
そして迎えたゴールデンウィーク。
その夜、また「あの戦い」が始まった。
その回も漏れなく同じパターンで一晩のたうち回ったし、下痢も収まったけど、腹痛がおさまらなかった。寝たら治るかな?と思ったけど寝ても治る気配がない。腹痛のままにトイレへ行ったら下血した。
さすがに怖くなり異常を感じ、流石に病院へ行こうかとも思っていたが、病院はやっていない。しかも自粛が一番厳しかった頃。よっぽどでない限り病院へなんて行きたくない。
苦しみながらも痛み止め薬を飲んだり、ヒーリングを仲間にエネルギーを送ってもらっているうちに治った。
原因は何だろう(自己分析)??
でもやはり、下血したからには何が原因なのだろうかと考えた。
結論、やはり食生活かなと。
お肉を火をきちんと通さずに食べるところがあったので(爆)、あたっただけかもと思っていた(お肉を食べた夜に多かったので)。
また、閉店間際のスーパーのお弁当50%オフで激安になる日があるので、まとめて買って自宅の冷蔵庫にて冷凍保存をしていたのだが
当時、夏場に冷蔵庫が壊れて冷蔵機能が弱まっており、翌日会社で食べるとき「ちょっと大丈夫かな?」と思うところもありつつも、まーお腹壊すくらいなら大丈夫かと食べていたところがあり(爆)
…そこらへんが原因かな?と思った。
気づいてからは、肉はよく火を通してから食べ、冷蔵庫も買い換えられたので、なんかやばい?という状態の弁当も食べることはなくなって、その後は激しい腹痛に襲われることはなくなった。
あーやっぱり食べ物がよくなかったんだな
そう結論づけて、「長い夜の戦い」は終わった
…かのようにみえた。
しかし2021年3月下旬、それは始まった
職場を離れて、次の仕事を探していた頃。
なんと、また、あの戦いが始まってしまったのだ。
食べ物も気をつけていたのに…
しかも下血するパターンで、腹痛が度を越えている。
仕事もしていないし、平日だったので近所の内科へ行った。
病状を伝えると、診察もほどほどにすぐに大きな病気を紹介されタクシーを手配された(その割には診察料結構取られたのだけど…!)。
院長曰く
「腸閉塞」が始まっているのではないか?
緊急手術してもらうことになるかもしれない、と。
やっぱり気になる「異物感」
紹介状をもらい近くの大きな病院へ。
腹痛が痛くてまともに歩けない中、入り口から一番遠い消化器内科までヨロヨロ歩いた。
待たされること1時間半。
診察の結果は「虚血性大腸炎の疑い」とのことだった。
「便秘を甘くみてはいけませんよ。」
そう言われ、便秘薬(酸化マグネシウム)を処方してもらい、ヨロヨロで体力が限界だったので点滴を打ってもらいつつ
この際…と思い、勧められたままにCTと大腸内視鏡検査を受けることにした。
別に医師の意見を鵜呑みにしていたからではない。実は、昨年の1回目の下血があってから便を出す時に「異物感」を感じていたのだ。
そしてここから、本当の長い戦いの始まった。
②へつづく。